いつか訪れるその日まで(第七回)
何も言えなくてもいい
貴女は横になっているだけで
私がひとり 語りましょう
息子 娘や孫の事など
四季の移りもいろいろと
話したいでしょう 貴女も
無念ですネ 失語になって
でも心の中は皆分かるよ
長い歳月共に歩んだからネ
疲れたかな
今年も又結婚記念日と
貴女と息子の同日の
誕生日も この四月ですよ
おめでとう五十八歳
(平成十五年四月) 第八回へつづく
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いつか訪れるその日まで(第六回)
あくび
大きな欠伸をして退屈だよネ
毎日寝たきりで お父さんは
何もしてあげる事もできず
ただ話しかけるだけ、今年ももう三月だよ
雛祭りもすぎ春を彩る花々が
梅、沈丁花などは甘い香りを漂わせて
せめて香りだけでも 一枝枕元に置くよ
車で電車でと四季の花々を
見に行ったネ
話す事が出来たら 美味しい物を
食べに行こうよ 散歩にも
ドライブにもとネ
ほうーら又 大きなあくびが
(平成十五年三月) 第七回へつづく
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この世に
信じるあなたが
いるならば
叶えて欲しい
ただひとつ
五十五歳の輝いた
愛しき人を
我が腕に
第六回へつづく
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いつか訪れるその日まで(第四回)
真珠の涙
なぜ 子供の涙は こうも
綺麗なのだろう 純心さが
ばば 一年生になるよと泊まりに来て
ベットサイドで ばばと自分とママと一緒に
露天風呂に入っている写真を見ている
Vサインをして 楽しかった思い出が
なぜか悲しみで いっぱいになり
小さな胸は震え優しい瞳から
大粒の涙が こぼれ落ち
ママーと云って胸に顔を埋め
泣きじゃくる
抱きしめられても次々と涙が
ばばが お星さまになった時
じじもそばで泪の中に
(平成十五年三月) 第五回へつづく
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いつか訪れるその日まで(第三回)
妻 茂子
湖畔で出会った二十頃
あなたが母になったころ
きれいになった
三十路頃
あなたが優しく
熟れたころ
すてきになった五十路頃
心の中にいつもいる
(平成十五年二月) 第四回へつづく
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いつか訪れるその日まで(第二回)
初詣 湯島天神
お昼まで寝ていたのに
初詣に行きたいと
少し体力の落ちた足どりで
石段の下には行列が
やっと境内につき神前に手を合わせ
病が治りますようにと
一心に願っている姿が
疲れたと云って何処にも寄らずに
この日が貴女の最後の初詣に
なぜ神様は願いを聞き届けて
下されなかったのでしょう
でも この時 私だけは貴女が
余命一年と告知されていたから
(平成十三年一月一日) 第三回へつづく
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いつか訪れるその日まで(第一回)
先日、更新の間隔をあけると宣言したばかりなのに、もう更新です(笑)。といっても全くブログのタイトルと関係の無い家族の話です。
今年の三月に母を亡くしました。丁度、ツアーがあってお葬式にも参列出来ませんでした。父は愛する母をおよそ五年間自宅で介護しました。
先日一冊の本が送られてきました。父が母への想いを書き綴った本でした。自己出版で、もちろん売っていません。父は京都友禅染の職人でした。毎晩遅くまで仕事で、いつも父の背中を見て育ちました。控え目で、それほど社交的でもありません。そんな父が本を書きました。
「こんなプライベートな話をブログに載せるなよ!」と思われるかもしれません(御免なさい)。私がブログにて公開するのは、父の母への愛に敬意を表したかったからです。
また地球の反対側に住み、何も出来なかった母や父へのせめてもの償いでもあります。数日で終わらせますので、お付き合い下さい。
序文
難病に倒れた妻。茂子五十五歳。楽しみの中に浸っていたのに病は彼女を打ちのめしました。言葉も失い体も自力で動かすことも出来ず、寝たきりとなった妻のため仕事を止めました。治ることのない病に虚しさを抱えながら、周囲の人々の支えを得ながら看てきた五年間。
自宅介護の合間に妻と交わした心と心の会話や、自分の思い出をそのまま書き留めていました。ある日、訪問入浴の看護士さんが「本にしてみたら」と言われたのです。同じことを知人に勧められ、今回の出版を思い立った次第です。
下手な文章と思いつつも、自分の気持ちを癒すため、看護の合間に絵や切り絵に取り組み、妻に対する思いなどをまとめていました。
平成十二年も麗かに明けた正月、前日より泊まりに来ていた娘夫婦と孫娘、私達は一緒に新年を祝い、アメリカに住む息子夫婦(現在は中米コスタリカ在住)とも電話で新年の挨拶を交わして、孫と一緒に初詣に行きました。
一月はあっという間に過ぎ去りました。二月のことでした。健康で明朗快活、家庭での物事も手際良くこなし、何でも出来る妻は運送会社では、事務員として毎日元気に通勤しておりました。子供達が結婚した後は、小さいながらも二人だけの幸せな暮らしでした。
妻は趣味として主にダンス、水泳、ドライブ、スキー、ゴルフ、温泉旅行など、楽しみの真っ只中にいました。知人と一泊二日でスキーに行き、翌日転倒して後頭部を強打、手足の指先に痺れを感じると言いながら帰宅しました。
その後、薬の服用で二、三ヶ月で治りましたが、今度は更年期障害が出始めました。しかし、外見的には変わりもなく通勤しておりました。
でも本人も気付かぬ間に、病魔は静かに少しずつ体を蝕んでいたのです。夏頃より体調不良の日々が多くなり、大学病院での検査もみな更年期障害のせいとの答えばかり。十一月頃には会社を休み日が多くなり、ついに退職しました。
十二月の検査入院の結果、病名が判明。難病で余命一年と告知を受けました。もちろん、妻には言わず、ただ自分の胸に秘め、この日より残された日々を共に過ごし、自分の持てる力の総てをもって妻に尽くしてあげようと誓いました。
翌十三年一月一日より自宅介護がスタートしました。でも病状は悪化するばかりで、三月末より急激に変化が現れ始め、四月末には歩行困難に。その間入院も少し。
六月、自宅では食欲不振にもなり、水分の多い物しか口にしなくなり、体も痩せてきました。点滴での栄養補給が始まりました。ある日、見舞いに来ていた二人の孫の名前を呼んだのが妻の最後の言葉となりました。
言葉を失った妻の心はどんなに深く悲しみ、無念であったことでしょうか。とうとう食事も駄目になり、再入院。退院間近になり、これからの生活が一変してしまうという自宅介護に向け、担当のナースさんから様々な実習を受けました。
鼻腔よりの経管栄養の与え方、注射器による胃の内容物の消化状態の確認、痰の吸引、消毒、投薬、調薬、尿処理、点滴の仕方、口腔内の清潔、痰を吸引しやすくするための一日三回のネブライザーによる気管吸入、聴診器を使った、痰による気管支炎の聴き方など一週間の特訓を受けました。
お陰でナースの一通りの仕事を学びました。
いよいよ本格的に介護生活が始まりました。前半、新米介護人の私は床擦れを作ってしまいましたが、その後は十分に対応出来ました。余命一年の告知から、四、五年に及ぶ介護になるとは思いもしませんでした。
平成十六年十二月二十日にショートステイで入院。一月には退院の予定が駄目になってしまいました。妻の体力も限界になり、危ないとの知らせに何度か駆けつけましたが、その都度小康状態を保ちました。でもついにその日が訪れました。夢叶わず、十七年三月八日、六十歳での旅立ちでした。
父が書いた詩へ続きます。
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